人を動かすもの2008/05/08 16:21

祖母の介護を目の当たりにしていろいろと考えさせられたのですが、まだまだ書いておきたいようなことがあるような、ないような。

実家の母は、40代で亡くなった叔父(母の弟)の代わりに祖母の面倒を見ることになったのですが、それまではまったくそのつもりはありませんでした。むしろ、母と祖母はかなり仲が悪かったほうです。面倒を見るために同居し始めた頃は、昔のうらみつらみを思い出して、私にこっそり話しては憤慨していました。祖母が元気なうちはしょっちゅう大声でケンカもしていたし。ホントに大丈夫?と思ったのですが、具合が悪くなってからは、むしろ献身的ともいえるくらいよくやっています。

1ヶ月前に来たときは、祖母はエルやジェイに向かって「いい子だね、いい子だね」と言っていましたが、今回行ったら、上目遣いに小さく目を開けるだけ。じっと見ているので、お客さんだとはわかっているようですが、声は出ませんでした。ごはんを食べさせる時間も長くなり、食事の支度も、細かく刻んだり、フードプロセッサーにかけたり、より手間のかかるものになっていました。けれど母は「おばあちゃん、これが好きだから…」と言いながら、新鮮なお刺身や、家の周りの畑で取れた季節の野菜や果物など、食べ慣れたものを工夫して食べさせていました。

こんど検査入院をするというので、ついでだから1週間くらい病院で面倒見てもらったら?と母に提案してみたのですが、 「こんなに時間がかかると、病院ではごはんを食べさせてくれないと思うのよね…それに、環境が替わるとそれだけでも具合が悪くなるかもしれないし…」 と、かなり心配そうです。自分だって相当大変なはずなのに。結局日帰りで検査だけして帰ってきました。

どうしてなんだろう。

やっぱり血のつながった親子だから?母だから?それが義務だから?もちろんいろいろな気持ちや葛藤があって一つではないと思うけれど。

直感的には、

生命に対する尊敬

のようなものをなんとなく感じました。好きとか嫌いとか、愛情とか義務とか、そういうものではなく、これまで生きてきたこと自体に敬意を払うというような作業。どう生きてきたか、とか、その生き方を支持するかしないか、ということではなくて、これまで生きてきたという、そのものだけ。

死と生は反対のものではなく、生の延長上に死があると、志賀直哉も言ってたし。それを日々肌で感じている、最も近い人、という責任感が、母を支えているのでしょうか。

話は替わります。

今日デパートで、エルを出産したときに友達になった女性に会いました。彼女は店員さん。そこで働いているとは聞いていたけれど、名字に確信が持てない。でもあの横顔は絶対にそう。

母の日用の包みを待っている間に、彼女のことを視界のはじで見ていました。お客さんに商品の説明を丁寧にして、希望の品を持ってきて、てきぱきと働いています。お客さんが「これもこちらで10年前に買った物なのよ、もうすりきれちゃって…」と言われると「大事に使っていただいてありがとうございます」とうれしそうにしていました。

声をかけようかどうか最後まで迷ったけれど、結局、そのまま帰ってきてしまいました。彼女が素敵に働いている姿に勇気をもらって、それでいいんじゃないか、と思ったからです。

あのときは二人とも新米ママだったよね、今はお仕事も充実しているみたいでよかったね、私は二度目の育児を楽しみながらがんばるよー、って心で思うことが、実際に声をかけることより、彼女の姿にふさわしい気がしました。

なんだか、そういう目に見えないエネルギーの流れが世の中を温めてくれるのかもしれない。


まだまだ知りたいことがたくさんあるなぁ。世の中って、どういうしくみで、動いていくんだろう。そんなに悪くないところのような気もします。そう思えた日はちょっと幸せです。