読書ってやっぱり基礎快楽と決定2009/01/07 10:13

ジェイの風邪も一応快方ではあります。子どもがカゼひくと一日が長いのよね~。常に顔色と様子を観察、時々体温測定、食べる・出すはしっかりチェックしつつ、変化を覚えとく。最悪いつどこの医者に連れて行けるかを常にシミュレーション。夜は眠りが浅いから何度も起こされるし(しかもお腹の調子が悪いのでしっかり授乳してるし)。

そんな中で、年末年始の準備と接客と片付けに忙殺されていて補充できなかった日用品の数々にがまんならず、ついに機嫌最悪のジェイを車にくくりつけて(エルはキュアモとお留守番、義母も忙しそうだった)行ってきました、何でも一通り手に入る大型スーパー。帰ってきたらジェイ激泣き。ようやくおんぶで寝かしつけ…

チクショー、やってらんないぜ、けっ(-_-;メ)

と部屋をぐるぐる歩き回りながら(止まると起きるからね)、某S師おすすめの「なぜ日本人は学ばなくなったのか」(齋藤孝、講談社学文庫)を取り出して、おんぶでうろうろ読書。

読みやすい。これは齋藤孝のウリなんですが、今回はいつもにも増して話がすっ飛んでいて、筋は通っているもののいささか暴論めいたところもあり、しかし感情に訴えかけるところは大きかったですねぇ。しかもこの感情というのが、もしそれが不安感であれば二度とこの人の本は読まないと固く誓うのでありますが、さぁここが齋藤孝のもう一つのウリ、「真善美へのあこがれ」みたいな、青臭いけど現代でそれを正面切って言えるのはこの人だけじゃないか、というポジティブかつ快楽的な感情でありまして。夜中までかけて一気に読み、とってもカタルシスでありました。そうだよなぁ。何かを学ぶ姿勢って、それはとても楽しいものなんだ、と。

日常に追われていても、その姿勢を思い出すことはできる。それは希望そのものであります。たくさんの小さなバランスにイライラする日常をしばし忘れ、大きな美しいものへ向かうココロのベクトルを自分の中に見つけるとき、その流れそのものの中にうっとりするような幸せがある。

とっても簡単にこの本を要約すると、斉藤孝は(そういえばこの人はサイタカとか呼ばれないねぇ)、読書することによって自分の中心軸を定めよ、と言っているのでありますが、書生気質のための読書案内にもなっていて、早速何冊か読んでみよう♪と思ったのでありました。マジでAmazonプライム入っちゃおうかな?

ちょうど数日前に本棚を整理したばかりだったので(もう二度と読まない本は捨てたさ!芸術は長く、人生は短い)、これからは、世界標準の文化的基礎となるような書物を増やそうと決めたのでありました。まずは、ドストのカラマをとんとんと並べ。うっふっふのふ。でもその隣にはちゃーんと料理本があったりする(笑)

そういえば、斉藤孝による、ドストの人物談義みたいな本が出ているのであります。えっ、流行のこの人が?ドスト語っちゃうの?みたいなポップな意外性が魅力なわけで。正当派露文学者の既得権益保持には寄与しないですね。なんてったってウレてるのはこっちだし、平成の市井には期間・地域限定のおいしい読み方があり。幾多の時代の洗礼を超えたものだけが真の芸術なれば、その愉しみを享受できるのは、しなやかな心を自ら育むものだけでありますが、それは誰にでも等しく開かれている、山上の狭き門であります。山上だからといって、狭き門だからといって、他人を引きずり下ろすことで自分を慰めるな、自ら険しい崖にかじりついて、等しく開かれているということの真の意味を知れ、というのが、齋藤孝の真意であります。一見取っつきやすい文章の向こう側にある厳しい風景。体育会系だ。

いや~読書って、ホントーに楽しいですねぇ。と、マイク水野風。