第3章 アルファベットの誕生とソクラテスの主張2010/10/07 11:37

【第3章 アルファベットの誕生とソクラテスの主張】

●初期アルファベットとその特徴

・エジプトで、最古のアルファベットより数世紀さかのぼる不思議な碑文(ワディ・エル・ホル文字)を発見。

エジプト語の原型である、文字数の少ない書記体系と、ウガリット文字をつなぐもの?

→最古のアルファベット文字?

・ワディ・エル・ホル文字での脳の順応に対する疑問。

 1.アルファベットを構成する要素は?音節文字やロゴシラバリーと分かれた理由は?

 2.アルファベットを読む脳は、特有の重要な知的資源というものが存在する?

・その他の、最古のアルファベット候補

 ワディ・エル・ホルより少し後のウガリット語の書記体系(音節文字とアルファベットの両方に分類)

 ウガリット王国(シリア沿岸):交易で栄えた。書記資料を遺した。

 書記体系に含まれるシンボル数の減少(30の記号)による書字の簡素化。

 独立した子音記号が<隣接する母音を区別する子音記号と組み合わせて用いられた。

 ヘブライ語の聖書の表記に、ウガリットの音声言語と書記言語が影響。

 ”アベセダリー”(文字に一定の順序リストがある書記体系)の利用。 

 紀元前2000年紀の原カナン文字は、ウガリット文字のアベセダリーと同じ文字順序→フェニキア文字の子音体系→ギリシャ語のアルファベット

 文字を一定の順序で習得させる、画一化された初期の教育制度のようなものが存在。

 紀元前1200年頃、ウガリッドは侵略者によって破壊された。書記体系も終焉。

・アルファベットの創始

 トーマス・マンの、聖書にヒントを得た短編

 何語を話す人でも自分の言葉で読めるような、普遍的な書記体系を考案しなければならない。

・書字における第3のひらめき;限られた数の記号でひとつの言語の音を余すことなく伝達できる書記体系の発達

・書記体系の記号数の減少→認知の効率化と記憶と労力の削減

・認知の効率性;脳が備えている第3の特徴;特殊化した脳領域で自動的と言える速さでの認知を実現できる能力

 効率のよい文字を読む脳は、思考に割く時間を長くとれた

 
●アルファベットの成り立ち

・アルファベットの主要な条件;古典学者エリック・ハヴロックの3つの基準

 1.文字の数が限定(理想は20~30)

 2.最小の音の単位を伝えうる文字を網羅

 3.個々の音素と、個々の視覚的記号または文字の完全対応

 ギリシャ・アルファベット以前はこれらの条件を満たしていない
 
 アルファベットはすべての書字の頂点に位置する

・言語学者と古代言語学者の意見は異なる。

 聞き分けられる最小の音の区分を表すことのできる書記体系は、すべてアルファベットとみなすことができる。

 ウガリット文字やワディ・エル・ホル文字も初期のアルファベットの一形態。

→「最初」の存在については、全面的な見解の一致が得られていない。

 ○口承文化とギリシャ・アルファベットの誕生

・古代ミノア文明の中心地から発掘された、解読不能な文字。

 線文字A:古いクレタ文字の特徴

 線文字B:解読不能

 1936年、線文字Bを解読;当時のギリシャの話し言葉をおおざっぱに書き記したもの

 線文字B;紀元前15世紀~12か11世紀の間に消失。記録が残っていない。口承文化が隆盛。

 紀元前8世紀のホメーロスの作品。ギリシャ市民の語形成能力の発達に貢献。

 叙事詩は暗記向き。定型句が記憶術と結びついた。

 ギリシャ人の驚異的な記憶力;口承文化と記憶に大きな価値を見いだしていたから

 記憶のような生得と思われる認知プロセスの発達に、文化が重大な影響。

 アルファベットは、音声言語を補助する役割

 ○フェネキア語の娘か妹か?

・古代ギリシャ人は、アルファベットをフェニキア語と呼んでいた。

・フェニキア人は、自分たちの文字の基礎を原カナン文字としていた。

 →系統は確認されていない。

第1の解釈:ヨーゼス・トロッパーの”標準的な説”

 ギリシャ・アルファベットは、フェニキア文字から生じた。

 フェニキア文字の前身は、ウガリット文字または原カナン文字。

 原カナン文字は、エジプト語の小規模な子音体系の文字。

第2の解釈:カール・トーマス・ツァウツィッヒ

 ギリシャ文字はフェニキア文字の娘でなく”妹”、同じセム語系の言語を母としている

 ギリシャ文字は、フェニキア文字よりもはるかに、エジプト語の筆記体に似ているから。

・神話では、アルファベットは、カドモス(テーバイの伝説の創健者)によってギリシャにもたらされた。


●アルファベットを読む脳は、優れているのか?

 アルファベットこそ、あらゆる書字の頂点に立つものであるとする、3つの主張

1.効率性に優れている

2.斬新な思考を促進する

3.読字初心者の言語音に対する意識が高まるので、容易に習得できる


○第一の主張ーーアルファベットは効率性であらゆる書記体系を凌いでいる

・効率性:流暢に理解しつつ、迅速に読める書記体系

・アルファベットは文字を節約してハイレベルな効率性 

・脳の検査;中国人の流暢さ;効率性はアルファベット識字者だけの専売特許ではない。

・3タイプの文字を読む脳;効率性が異なる

1.アルファベット;左半球の後頭領域の特殊化した領域のみ

2.中国人(≒シュメール人);両半球の多数の領域を特殊化した自動プロセス

 中国語を読めなくなったが、英語は読むことができたバイリンガルの失読症の例
 
3.日本語;漢字を読むときは中国語同様、仮名のときはアルファベットに近い、前頭前野を賦活しない、音節文字である仮名の平明さと効率性

 左側頭葉後部周辺に、漢字と仮名からなる文章を読むときに活性化する皮質系がある

 もっとも複雑な読字回路の一つ

 二種類の仮名文字が音節単位である;規則性と平明性;

 視覚的な五十音図による仮名指導によって、音韻処理に、視覚ベースの代替ストラテジーがとれる。

・要約:言語によって読み手が利用する経路は異なる。日本語のように、同じ脳内でも異なる書記体系が用いられている文章を読むときは別の経路を使うことがある。

・どの言語でも効率性をきわめることはできる。

・共通する3大領域が書記体系によって使い分けられている。

1.後頭-側頭野(リテラシーのための”ニューロンのリサイクリング”の中枢がある領域);視覚のスペシャリスト

2.ブローカ野を取り巻く前頭連合野;単語の音素と意味を認知するスペシャリスト

3.上側頭葉と下部頭頂葉にまたがる多機能領域;音と意味の複数の要素の補助をする追加領域

・汎用読字システム;脳の全4つの脳葉から必要な領域を選択するシステム

・書字の進化に関する、2つの結論

1.いかなる言語でも、文字を読むことは脳全体の再編成につながる

2.流暢に理解するための経路は複数存在。すべての書記体系に共通する連続体というべき効率性を備えている。

・ウォーフなどの哲学者;言語の相違は読み手の考え方に特定の形で影響を及ぼすのではないか?

 アルファベットに関する主張との相違点;

 アルファベットが作り出すのは、優れた脳ではなくて、効率性が独特な発達を遂げたという点で、他の書記体系の脳とは異なる

 シンボル数の減少によて得られた皮質の効率性と、習得する過程で得られた発達の効率性。得られたのは速さだけ?


○第二の主張ーー斬新な思考を生み出すことにかけて、アルファベットに勝るものはない

・古典学者ハヴロックとオルソン;ギリシャ・アルファベットの効率性;口承伝統の踏襲に必要な労力から人々を解放し”斬新な思考の案出を刺激した”

・口承文化;語れること、思い出せること、創出できることに制約

・ギリシャ・アルファベットならではの功績?それとも、思考を多くの人に広める書字の本質?

・知的思考の発達を促したのは、書字そのものである。

・ロシアの心理学者ヴィゴツキー;語られた言葉と語られなかった思考を文字に置き換えるという行為が思考を説き放ち、その過程で思考自体を変化させる。

・初期言語と新しい思考との循環的な関係;生成的な関係;ギリシャ・アルファベットが書字と思考の創造的相互関係を示す最もよい例の一つ。

・アルファベット体系と音節文字がもたらした効率性の向上が、多くの人々に、読字初心者の場合はその発達の早い段階で、斬新な思考を可能にした。


○第三の主張ーーアルファベットは音声に対する意識を高め、読字の習得を促進する

・ギリシャ・アルファベットに盛り込まれた高度な言語学的洞察

 音声言語の音声の流れはすべて分析でき、個々の音に規則的に分割できるものである。

 音声知覚の近代史;省略

 フェニキア語の音素を系統的に分析;フェニキア文字と対応;

 ギリシャ語での言語音声でも同じ分析;フェニキア語の書記素を基礎とし、最終的にはギリシャ語のほぼすべての音素にギリシャ文字をひとつずつあてはめた。

 母音を表す新しい文字;方言に合うように、一部のシンボルに変更

・シュメール人:初の言語学者、サンスクリット語:文法学者、ギリシャ人:音声学者

・幼いギリシャ語の生徒には、形態素と音素の対応するほぼ完全な規則ができあがった、ほとんど完全なアルファベットが与えられた。;早く流暢なリテラシーを獲得

・ギリシャ人たちは、ギリシャ・アルファベットの教育を数世紀にわたってためらい続けた

 知識階級のギリシャ人は、高度な発達を遂げた口承文化の方が文字文化より優れていると考えたから


●ソクラテスはなぜ書き言葉の普及を非難したのか

・ソクラテス;リテラシーについて提起した疑問が、21世紀初頭の数々の問題を指し示している

・当時は口承文化から文字文化への移行;現在の文字文化からデジタルで視覚的な文化への移行

・ソクラテス;書記言語の野放し状態の普及を激しく非難

 プラトン;態度を決めかねていたが、口頭で語られた会話を文字による歴史に記録

 アリストテレス;読書の習慣

 三人は同じ学究の指導者一門

・ソクラテスと弟子たちの対話;吟味した言葉と分析に基づく思考のみが真の徳につながる道;真の徳のみが社会を正義へ、人間を神へと導きうるもの

・徹底した学習方法は、与えられた知識を丸ごと受け入れるという伝統とは異なっていた。

・元になっている思考の核心が明らかになるまで問いかけを続ける;目標は、その思考が社会の最も深遠な価値観をどこまで反映しているかを理解すること

・ソクラテスは、その教育により若者を堕落させたかどで裁判にかけられた。

・「自身と他の人々について吟味しつつ日々議論を重ねることが人間にとっては最大の善」

・ソクラテスの見解:書記言語は社会に深刻な危険をもたらすもの。3つの懸念。

 1.話し言葉と書き言葉が個人の知的生活において演じる役割は全く異なる

 2.書記言語が記憶と知識の内面化とに課する甘い要求は、悲惨な結末をもたらす

 3.音声言語が倫理性と徳の発達に担う独特の役割を熱烈に支持

 いずれの主張も、書き言葉を話し言葉に劣るものと判断


 ○第一の反対理由ーー書き言葉は柔軟性に欠ける

・ソクラテス式問答法;言葉に対する独特の考え方;

 書き留められた言葉は”死んだ会話”;反論を許さない、柔軟性に欠ける沈黙

 話し言葉は”生きている言葉”;吟味と対話によって、明らかにしていくことができる動的実態

・ヴィゴツキー『言語と思考』;言葉と思考、教師と生徒の生成的な関係;子どもの言葉と概念の関係の発達には、社会的相互作用がきわめて重要な役割を担う

・ヴィゴツキーは、自分の思考を書くというプロセスそのものが思考の洗練と新たな思考法の発見につながることに気づく

・書字のプロセスは、対話を一人の人間の内面において再現できるもの

 正確な書き言葉で考えを記録しようとする書き手の努力の中には内的対話が含まれている

・書字がまだ、あまりにも未熟だったため、ソクラテスは、書記言語の対話能力を経験できずに終わってしまった。

・21世紀のコミュニケーションにおけるインタラクティブな次元の対話能力;”反論”する能力はさまざまな形

・ソクラテスの懸念;書かれた文章が真実と誤解される可能性;コンピューターからの情報を吸収しているが、理解しているとは限らない


 ○第二の反対理由ーー記憶を破壊する

・リテラシーは、記憶と個人の知識の内面化に変化をもたらす;リテラシーは個人の記憶への負担を軽減し、文化的記憶を大幅に増加する

・ソクラテスが口承文化を尊重したのは、個人的知識の基盤を形成するのは、暗記するという非常な努力を要するプロセスであり、基盤は教師との対話の中で磨いていけるという信念

・ソクラテスの結論;書記言語は記憶の秘訣ではなく、記憶の破壊をもたらしうる

・文化的記憶を保存するうえでは書字のほうが有利だが、個人の記憶力と、それが知識の吟味と具現化に担う役割とを保つことが重要

・暗記;教育の一環で当たり前のことと思う;現代の私たちは、文章をきちんと暗記するよう要求される機会をほとんど持たない。

・現代の子どもたちと、古代ギリシャの子どもたちの言語と長期記憶を結ぶ脳の経路にはどのような違い?

・記憶力は私たちの人生にいかなる場所を占めているか?


 ○第三の反対理由ーー知識を使いこなす能力を失わせる

・ソクラテスが恐れていたのは、読字ではなく、過剰な知識がもたらす結果;表面的な理解しかできないこと。

・教師や社会の指導を受けずに得たリテラシーが、知識への危険なアクセスを許してしまう

・コンピューターの、即時性、無限の情報、バーチャル・リアリティーは、知識と徳の脅威になるか?

 好奇心は、浅薄な情報によって満たされる?知識欲につながる?

 継続的な注意力の断片化と多重課題(マルチタスク)に、言葉、思考、真実、および徳の、掘り下げた吟味は広く根付く?

 高画質の動画で学べるようになっても、言葉や物事や概念の本質は重要?

 リアルな画像を見慣れた子どもたちの想像力は乏しくなる?

 視覚的に描き出されるもので、それの真実ないし現実を理解していると思い込む?

・私たちは、言語を使いこなす能力を失いつつあるように思えてならない。

・ソクラテスが、リテラシー普及を阻もうとする戦いに敗れた理由2つ。

 1.書記言語の能力が完全に開花した姿を見られなかったこと

 2.新しい形のコミュニケーションと知識が登場する前の状態には戻れなかったこと

・ソクラテスの真の敵は、文字を書き留めることではない。私たちが言語の多様な能力を吟味せず、”持てる知力を尽くして”使いこなそうとしていないことに対して戦いを挑んだ。

・サンスクリット語の学者も、書記言語を非難している。言語分析を省いてしまいかねない文書に依存することに疑念を抱き、糾弾した。