LD関連、近況など2011/01/06 04:01

隠れLDに追加の感想。

視覚的なエピソード記憶に優れている。そこから情報を選択して一般化・抽象化するときの基準が独特な気がした。世の中の常識のようなものを利用せず(意図的にというよりは、情報量が大きすぎてうまく扱えない)、自分自身にとって切実な価値や情動が大きく作用している感じ。これって常識主義タイプの親から見たら理解不能だろうなぁ、と思った。勉強に関していえば、なるべく単純な視覚的エピソード記憶の機会を作ってあげること。それから時間をおいて3回くらい繰り返せば定着しそう。記憶→情報の入れ物を想起→情報自体を想起。

あと、自己像を語るのに、他人からの言葉を借りているような印象が。ほめすぎ・けなしすぎには注意。本人や状況について、客観的に語ってくれる、親なり教師なり友達がいるといいかもしれない。また、本人の感情に対して、ある程度のラベリングを提示してあげると(選択は本人自身)楽になるようでした。

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以下は私の近況。

実家で長く寝たきりだった祖母が他界しました。もちろん幼かった頃からの、いろんな思い出がめぐるのですが、ずっと介護をしていた両親を見てきたので、貴重な勉強になりました。というわけで数日家を空けますが、ここのところ定番の、携帯から夜中に更新するかも。

さてまた寝ます!

世界一地味なネタ//介護と育児の温泉効果2009/02/17 17:44

帰宅早々こんなネタでいいのか?って感じなんですが。
小さくなったキッチンの固形石けんを、三角コーナー用の網(ブルーの網戸っぽい素材のやつ)に入れて輪ゴムで留めて使ってる、という状態について書いたことがありましたが(その後新しい石けんを使い始める時の清々しさったら!)、もしかしてこれって

洗顔用泡立てネット

に酷似してないか?ということに気づき、昨日は、ミニミニ石けんの最後の花道を飾るべく、ごわごわと盛大に泡立てて、流しのシンクをすみずみまでぴかぴかに磨き上げました。泡立てのみならず、あのネットの固さがこびりつき汚れをこそげ落とすのに最適。プチ発見プラスもったいない精神も満足して、とっても気分がよかったのであります。

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さて、温泉ですが、よかったですよ~。ジェイも1歳で、普通に炊いたごはんOK&昼間ミルク無し(夜間だけ母乳)&お風呂でつかまり立ち可、となり、旅行対応型へとバージョンアップ(ってすごく大げさ、かつ、親の希望が満載すぎじゃないか?)。ベビーシートもエルほどいやがらず(たぶんエルがすぐ隣に乗っているからだと思う)、まぁ車で片道1時間以内の旅行なら大丈夫かな、という感じでした。というわけで、また行こうっと♪

今回は、実家の母が介護している祖母が2泊のショートステイだったので、実家の両親を連れて、1泊だけですが気分転換に行ってきました。私もずっと赤ちゃん連れで出不精だったから、エルをどこかに連れて行ってあげたかったし。こういう忙しい中でバタバタと出かける旅行のほうが案外記憶に残るんじゃないかと思ったり。

この企画を思いついたのは、いつぞや実家で母と一緒に、テレビの旅行番組でのんびりするレポーターを見るともなく見ているときの会話、

私@0&5歳育児中「いつか時間ができたらこういうところに行けるようになるのかなぁ…」

母@88歳介護中「そう思っていると、いつまでも行けないものなのよ」

私「でもさ、この忙しい中で、1日でもいいから、いや、1食でもいいから、おいしいものでも食べてゆっくりできたら、すごく幸せで、さぁまた明日からがんばるぞー!って思えるのにね」

母「そうだねー」

…その時に「旅行は忙しい中にこそ行くべし」というアイディアがひらめいたのでありました。万難を排し、万障お繰り合わせの上、短い間でも、普段の忙しさを離れてしばし忘れ、いつもと違う何かをする。出かける前の忙しさも、帰ってきた後の疲れも、投資のうち。

で、実行してみたわけですが、これはなかなか人生の真理でありました。確かに相当疲れましたが、とりあえず気分は非常によいです。たまには大きめのごほうび効果、恐るべし。日常のプチなマイごほうびも忘れずに♪

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あぁあと全然話は替わりますが、「とりあえず目の前の子どもを受け入れる→落ち着く→一緒に考える」ということについて書きたかったんですが、まだイマイチ深まらないので、温存箱行き~。

人を動かすもの2008/05/08 16:21

祖母の介護を目の当たりにしていろいろと考えさせられたのですが、まだまだ書いておきたいようなことがあるような、ないような。

実家の母は、40代で亡くなった叔父(母の弟)の代わりに祖母の面倒を見ることになったのですが、それまではまったくそのつもりはありませんでした。むしろ、母と祖母はかなり仲が悪かったほうです。面倒を見るために同居し始めた頃は、昔のうらみつらみを思い出して、私にこっそり話しては憤慨していました。祖母が元気なうちはしょっちゅう大声でケンカもしていたし。ホントに大丈夫?と思ったのですが、具合が悪くなってからは、むしろ献身的ともいえるくらいよくやっています。

1ヶ月前に来たときは、祖母はエルやジェイに向かって「いい子だね、いい子だね」と言っていましたが、今回行ったら、上目遣いに小さく目を開けるだけ。じっと見ているので、お客さんだとはわかっているようですが、声は出ませんでした。ごはんを食べさせる時間も長くなり、食事の支度も、細かく刻んだり、フードプロセッサーにかけたり、より手間のかかるものになっていました。けれど母は「おばあちゃん、これが好きだから…」と言いながら、新鮮なお刺身や、家の周りの畑で取れた季節の野菜や果物など、食べ慣れたものを工夫して食べさせていました。

こんど検査入院をするというので、ついでだから1週間くらい病院で面倒見てもらったら?と母に提案してみたのですが、 「こんなに時間がかかると、病院ではごはんを食べさせてくれないと思うのよね…それに、環境が替わるとそれだけでも具合が悪くなるかもしれないし…」 と、かなり心配そうです。自分だって相当大変なはずなのに。結局日帰りで検査だけして帰ってきました。

どうしてなんだろう。

やっぱり血のつながった親子だから?母だから?それが義務だから?もちろんいろいろな気持ちや葛藤があって一つではないと思うけれど。

直感的には、

生命に対する尊敬

のようなものをなんとなく感じました。好きとか嫌いとか、愛情とか義務とか、そういうものではなく、これまで生きてきたこと自体に敬意を払うというような作業。どう生きてきたか、とか、その生き方を支持するかしないか、ということではなくて、これまで生きてきたという、そのものだけ。

死と生は反対のものではなく、生の延長上に死があると、志賀直哉も言ってたし。それを日々肌で感じている、最も近い人、という責任感が、母を支えているのでしょうか。

話は替わります。

今日デパートで、エルを出産したときに友達になった女性に会いました。彼女は店員さん。そこで働いているとは聞いていたけれど、名字に確信が持てない。でもあの横顔は絶対にそう。

母の日用の包みを待っている間に、彼女のことを視界のはじで見ていました。お客さんに商品の説明を丁寧にして、希望の品を持ってきて、てきぱきと働いています。お客さんが「これもこちらで10年前に買った物なのよ、もうすりきれちゃって…」と言われると「大事に使っていただいてありがとうございます」とうれしそうにしていました。

声をかけようかどうか最後まで迷ったけれど、結局、そのまま帰ってきてしまいました。彼女が素敵に働いている姿に勇気をもらって、それでいいんじゃないか、と思ったからです。

あのときは二人とも新米ママだったよね、今はお仕事も充実しているみたいでよかったね、私は二度目の育児を楽しみながらがんばるよー、って心で思うことが、実際に声をかけることより、彼女の姿にふさわしい気がしました。

なんだか、そういう目に見えないエネルギーの流れが世の中を温めてくれるのかもしれない。


まだまだ知りたいことがたくさんあるなぁ。世の中って、どういうしくみで、動いていくんだろう。そんなに悪くないところのような気もします。そう思えた日はちょっと幸せです。