幼児の動機づけ~プリントと興味をめぐる考察、その2。2010/03/25 11:00

うっふっふ~。かねてよりお目にかかりたいと思っていた人(たち)と会ってきましたよー。オフラインの情報って、これぞまさに五感系。自分の軸を、より自分らしく修正&強化できた気がして、ホントに身も心もスッキリです。

というわけで、滞っていた記事を完成させてみようかなと。


前記事では、プリント主導および興味主導の学習について、主に学習観の違いという点から比べてみましたが、自分的にもイマイチ考察が甘かったなーという感じがしておりまして。それはなぜか?

実は、あの表を作ろうと思いついたのは、プリントと興味では「動機づけ」が違うんじゃないか?と思ったのが、そもそもの発端なのです。それをもう少し説明して、私が好む立場も書いておいたほうがよさそうな気がします。

ごく大雑把に言うと、モンテの言うような「行動を行うことそれ自体が目的」というのが、内発的動機づけです。例えば、「したいからする」「知りたいから調べる」など。それに対して、外部より(広義の)報酬や罰(うれしいことやいやなこと)があるから行動する場合は、外発的動機づけです。

で、ここからは、私個人の「教科以前」教育観なのですが、

「教科教育に先行しては、勉強と外発的動機づけを結び付けたくない」

というカンのようなものがありました。これは、私が研究というものに携わっていた影響だと思います。学問は内発的動機づけに裏打ちされていてほしいという、ささやかな願望のようなものです。判断や選択というレベル以前の、なんとなく、というような、直感。

もちろん、勉強だけでなく何事においても、基礎段階においては訓練が大切です。しかし、目的と手段を区別するならば、内発的動機づけが目的で、外発的動機付けは手段、という位置づけを基本としたいのです。

さらに個人的な経験を掘り下げていくと、受験のときに、つまらない勉強をなんとか乗り切れたのは、圧倒的な外発的動機づけの嵐にも負けずに、ささやかに心の中に灯っていた、小さな内発的動機づけのおかげだという感じがします。あえて言葉にするなら、

「こんな教育は間違ってる。変えたい。けれど、まずこれを乗り越えなければ、教育自体を変えることはできない」

というような反骨精神を、10代半ばからおぼろげに持っていました(なんとも青臭いですねー(^-^;)。今でもその思いは私の中のどこかにあって、あちこちで顔を出します。

その後、認知発達心理学を専攻したのも、この内発的動機づけによるところが大きかったです。まぁこの選択が自分にとってよかったのか悪かったのかは難しいところなんですが(苦笑)利害の判断を超えた、どうしようもない衝動だったので、後悔はないですねぇ。もちろん細かいことを思い出してクヨクヨすることはあるけど(^-^;

現在もこんな下手ブログを細々と書き綴るのも、その現れの一つなのでしょうね。今となっては、ほどほどに気楽で、おもしろいです(興味を同じくする人との、心身がワクワクする出会いもあるし!)。

学校という場所へ勉強をしに通うという文脈の中で、プリントを使って学ぶのは、合理的だし、便利だし、当然のことだと思います。実際に、エルに対しても、就学直前の冬からは、プリント学習という形式を取り入れました。まずはペーパーワークに慣れることを目的として、習得や進度の点はほどほどに、直接の先取りにはならない方向で…と、学校に行って初めて経験する、新鮮な「何か」を残しておきたいなぁとは思いました(新奇性も内発的動機づけの一つです)。

もちろん、学習内容のほうを先に片付けておいて、学校生活に慣れるほうを主な目的とするやりかたも、子どもによっては重要になると思います。子どもの性質と、親の価値観によって、さまざまな就学準備のバリエーションが存在するのは自然なことです。

より大切なのは、目に見える「どう行動するか」という部分ではなくて、それ以前の「状況をどのようにとらえて、選択するか」という過程にある、というような、なんとも文章化しにくい感覚から離れることができません。と、なんだか読みにくい記事ですみません(^-^;

たぶん、こうやって、悩み、選び、修正し続けていく姿勢こそが、子育ち・親育ちなんでしょうね。


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コメント

_ ヴァッキーノ ― 2010/03/25 23:08

いつも思うのは、
いづみさんは
物事を建設的に論理的に
捉えるのがうまいなあということなんです。
秘書とかマネージメントとかやったら
バッチシでしょうねえ。
ボクはがさつで思いつきばかりなので
とてもこうは考えられません。
だって、今夜も酔っ払ってんですから(笑)

あ、ポチッとな。

_ yoshiko ― 2010/03/28 10:55

そうか…。わかったよ。モンテに関するほんの少しの違和感が何か。同じように見えるモンテでも、内発的動機づけの機関と外発的動機づけの機関があるんですな。
これは、マーケティングのモンダイでもあるわけで、親の期待を過剰に反映させると、外発的動機づけの取り組みが増えていくんじゃないかと想像します。で、いまの世の中、外圧に負けずに内発的動機づけを柱にしている機関は、実はそう多くないんじゃないかというのが、わたしの感触。とくに、小学校に直結する5才・6才児の教育となると。
宗教ベースの機関だと、辛うじて何とかそのあたりに気概を残しているような気がしています。レッテルじゃなく、心の目で見ろってことね。
ああ、すっきりした。

_ いづみ ― 2010/03/28 15:55

昨日は、卒園記念お出かけへ行ってまいりました。1日遊び倒すと翌日身体の節々が微妙に疲れてるのは年のせい!?

>ヴァッキーノさん
物事を切り刻んで細かくするのが好きなんですが、これを全部足しても、元の全体にはならないのですよ。
ヴァッキーノさんのように、物事の本質を自分の手でがっつりと捕まえられたら…うーん、たまには酔っ払って世の中を考えてみようかな(笑)

>yoshikoさん
難しいのは、内発的動機づけって、教えられないからねぇ。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ってやつですね。何度も繰り返すうちに、のどが渇くサインに気づいて、水を近くに用意しておくことはできる、って感じでしょうか。

新生児を目の前にして、「こんなに小さいのに、自分でおっぱい飲んで、自分でウンチするなんて、エライ!!」とみょーに感動したことがありましたが、親ができることって実は、ほんの少しのお手伝いで、本人が育っていく部分が圧倒的なのかもしれません。

ただ、少しの工夫で快適に育つことはできる、みたいな。しかしこの「快適」はあなどれませんね。言ってみれば、快楽主義と禁欲主義のテキトーなバランス。

そうそう、心の目。個々の行動レベルをヒントにしながらも、それを超えた、何か本質的なもの。これもやっぱり、視覚ではなく、五感系ですね。オフラインばんざい(笑)

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