?をしみじみ味わう。 ― 2010/03/09 10:17
いただきものの、おもちゃのエアーポットで、エルが遊んでいました。
ふたを開けて水を入れ、ふたを閉めてから、プッシュボタンをぎゅっと押すと、ポンプ機能がついているので、注ぎ口から水がじゃーっと出てきます。
何度か繰り返した後に、ぽつりと一言
「どうしてここから水が出るんだろ?」
むむむ、母たるもの、そのしくみを説明すべきか否か?
圧力は全方向にかかる、とか、風船がふくらむのと同じ、とか、言葉が頭の中をぐるぐるとかけめぐります。
…しかし、目の前のエルは、その説明を必要としているのだろうか?
エルはといえば、相変わらず、同じ作業を黙々と繰り返しています。ぎゅっと押す手と、出口を見つめる目に、力がこもっています。
そこで、こう言うことにしました。
「そうだねぇ…どうしてだろ?」
手に力を込めると、手を押し返すボタンの圧力は微妙に変化し、最初はふと軽いのが、ぐっと重くなり、一瞬遅れて水が出てくる。流しに水が落ちる、ごぼごぼという音。その経験が丸ごとエルの身体にしみこんでいくような感じがしたからです。
水が出なくなると、ふたを開けて水を入れる。水は底のほうからたまっていく。それがなぜか、上のほうの出口から出てくる、不思議。
エルは、横の窓(水量計)をのぞいたり、ふたを開け閉めして、ふたと本体のしくみを確認したりしながらも、水を入れて出すことを何度も繰り返しています。今エルの頭の中では、一体何が起こっているんだろう?全身でワクワクしていることは確かです。
重力を裏切る現象は、幼児でも(それこそ0歳児後半でも)驚くことがわかっています。大人だって、ちょっと考えないと、エアーポットのしくみはわかりません。これを最初に思いついた人って、すごい。そして、そこに疑問を持ったエルも、ちょっとエライ(笑)
この経験が、いつか物理学を学ぶときの、感覚的な基礎となるよう祈りつつ。ママは苦手だったよ物理学。え~む・え~い・え~ふ♪
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幼児の学習とは~プリント vs. 興味 ― 2010/03/11 20:26
私は、エルの就学直前まで、毎日のプリント学習を積極的には取り入れませんでした。何よりエルが好まず、私も管理できないと判断したのが最も大きな理由です。…では、それ以外の理由は何だろう?と改めて思い返してみようかと思います。
まず、プリント主導の学習と、興味主導の学習に対する、個人的な印象を対比させて表にしてみました。
プリント主導 | 比較内容 | 興味主導 |
体系的知識をもれなく習得 | 学習観 | 経験的知識を自ら洗練 |
コツコツ | イメージ | ワクワク |
外発的 | 動機づけ | 内発的 |
一定 | 学習環境 | 多様 |
可 | 進度の定量化 | 不可 |
網羅的 | 内容 | 断片的 |
別の文脈 | 個人的経験との関係 | 強い結びつき |
一部使用 | 五感 | フル活用 |
この表である意味全てなんですが(笑)一応解説も。
集中力が続かないタイプの子(この場合、就学後の子どもを念頭においています)では、学習環境を整えることが、学習内容よりもずっと大切な場合があります。その点で、プリント学習を「毎日」「一定量」「同じ時間・場所で」行うというのは、気を散らさないためにはよい方法だといえるでしょう。目に見えて○×がわかるし、ノルマが終わることで達成感も得られます。日常生活では得られない、目に見える強い目的がある場面設定です。
この「集中力が続かない」ということですが、年齢が低ければ低いほど、集中できる時間は短くなります(もちろん活動の内容にもよりますが)。学齢期以前の幼児期には、この性質にどう対処できるでしょうか?
・余計な刺激をなるべく少なくして体系的に学習させる。
・好きなこと・興味のあることを中心に経験させる。
どちらもアリだと思います。これは学習観の違いですね。
幼児の集中力が続かないのはなぜでしょう?(もちろん訓練すればある程度までは伸ばせるでしょう。)あくまでも一つの仮説ですが、幼児期は、自分で生きていくために必要なことを大量に学んでいかなければならないために、一つのことだけでなく、あれもこれもと関心を持つしくみになっている可能性もあります。
特定の年齢における能力の制約と、自発的学習方法は、不可分な関係にあります。例えば、生後間もない赤ちゃんは非常に近眼です。だから、ごく近くの狭い世界しかわからないともいえますし、一方では、養育者を観察して見分けるためには都合がよいというとらえかたもあります。
つまり、学習観の違いは、子ども観の違いにもつながります。大人との違いを、量的なものととらえるか、質的なものとするか。
・完成途中の段階であり能力的に未熟である。よって訓練が大事。
・子ども時代にしか発揮できない固有の能力がある。よって遊びが大事。
どちらが正解というわけではありません。どちらもそれぞれ子どもの性質をよく表していると思います。その上で、目の前の子どもを観察し、どういうバランスで環境を整えていくか。それは親が常に頭を悩ませるところです。私も悩みました。これでよかったのかどうか。答えのない問いとして、就学前にひとまとめしてみました。

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幼児の動機づけ~プリントと興味をめぐる考察、その2。 ― 2010/03/25 11:00
うっふっふ~。かねてよりお目にかかりたいと思っていた人(たち)と会ってきましたよー。オフラインの情報って、これぞまさに五感系。自分の軸を、より自分らしく修正&強化できた気がして、ホントに身も心もスッキリです。
というわけで、滞っていた記事を完成させてみようかなと。
前記事では、プリント主導および興味主導の学習について、主に学習観の違いという点から比べてみましたが、自分的にもイマイチ考察が甘かったなーという感じがしておりまして。それはなぜか?
実は、あの表を作ろうと思いついたのは、プリントと興味では「動機づけ」が違うんじゃないか?と思ったのが、そもそもの発端なのです。それをもう少し説明して、私が好む立場も書いておいたほうがよさそうな気がします。
ごく大雑把に言うと、モンテの言うような「行動を行うことそれ自体が目的」というのが、内発的動機づけです。例えば、「したいからする」「知りたいから調べる」など。それに対して、外部より(広義の)報酬や罰(うれしいことやいやなこと)があるから行動する場合は、外発的動機づけです。
で、ここからは、私個人の「教科以前」教育観なのですが、
「教科教育に先行しては、勉強と外発的動機づけを結び付けたくない」
というカンのようなものがありました。これは、私が研究というものに携わっていた影響だと思います。学問は内発的動機づけに裏打ちされていてほしいという、ささやかな願望のようなものです。判断や選択というレベル以前の、なんとなく、というような、直感。
もちろん、勉強だけでなく何事においても、基礎段階においては訓練が大切です。しかし、目的と手段を区別するならば、内発的動機づけが目的で、外発的動機付けは手段、という位置づけを基本としたいのです。
さらに個人的な経験を掘り下げていくと、受験のときに、つまらない勉強をなんとか乗り切れたのは、圧倒的な外発的動機づけの嵐にも負けずに、ささやかに心の中に灯っていた、小さな内発的動機づけのおかげだという感じがします。あえて言葉にするなら、
「こんな教育は間違ってる。変えたい。けれど、まずこれを乗り越えなければ、教育自体を変えることはできない」
というような反骨精神を、10代半ばからおぼろげに持っていました(なんとも青臭いですねー(^-^;)。今でもその思いは私の中のどこかにあって、あちこちで顔を出します。
その後、認知発達心理学を専攻したのも、この内発的動機づけによるところが大きかったです。まぁこの選択が自分にとってよかったのか悪かったのかは難しいところなんですが(苦笑)利害の判断を超えた、どうしようもない衝動だったので、後悔はないですねぇ。もちろん細かいことを思い出してクヨクヨすることはあるけど(^-^;
現在もこんな下手ブログを細々と書き綴るのも、その現れの一つなのでしょうね。今となっては、ほどほどに気楽で、おもしろいです(興味を同じくする人との、心身がワクワクする出会いもあるし!)。
学校という場所へ勉強をしに通うという文脈の中で、プリントを使って学ぶのは、合理的だし、便利だし、当然のことだと思います。実際に、エルに対しても、就学直前の冬からは、プリント学習という形式を取り入れました。まずはペーパーワークに慣れることを目的として、習得や進度の点はほどほどに、直接の先取りにはならない方向で…と、学校に行って初めて経験する、新鮮な「何か」を残しておきたいなぁとは思いました(新奇性も内発的動機づけの一つです)。
もちろん、学習内容のほうを先に片付けておいて、学校生活に慣れるほうを主な目的とするやりかたも、子どもによっては重要になると思います。子どもの性質と、親の価値観によって、さまざまな就学準備のバリエーションが存在するのは自然なことです。
より大切なのは、目に見える「どう行動するか」という部分ではなくて、それ以前の「状況をどのようにとらえて、選択するか」という過程にある、というような、なんとも文章化しにくい感覚から離れることができません。と、なんだか読みにくい記事ですみません(^-^;
たぶん、こうやって、悩み、選び、修正し続けていく姿勢こそが、子育ち・親育ちなんでしょうね。
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