世界の新しい解釈//眠すぎる土曜日2008/11/15 09:16

さて今日は土曜日ですが、エルは幼稚園。ジェイは午前中のお昼寝タイム。洗濯物を干す前に更新してみたりする、贅沢な休日。

「世界の新しい解釈」がしりとり的お題だったんですが。新しいとはどういうことか?解釈とは何か?と考えてみるに(核心となる言葉が先に出て、理屈はいつも後からなのであります)、ここまでの流れではたぶん、

・他人の世界観は、私にとって新しい。

・世界とは、それぞれが解釈するものであって、一義的に決まらない。

というようなことではないかと。当然といえば当然のことなんですが(^-^;

こういうお互いの世界観を、名刺みたいに交換するためには、まず、自分の世界観を把握していることが必要なわけです。お互いに違う、ということが前提ならば、主観的なものでも、客観的だと思いこんでいるものでも、何でもかまわない。とにかく自分をそこに乗っけて毎日暮らしている乗り物のような日常を捕まえる。そして、表現する。

地と図という話が出てきましたけれど、本当におもしろいのは、図の中に見え隠れする地で、その隠れた広がりを見つけ出すことが読書とか会話の楽しみというか。

よく(上手に、というような意味)表現された世界観は、他人の目を開きます。それが、新しさ。世界標準の新しさではなく、ごくローカルなものですが、そこに本当の進歩(の芽)があると思うのであります。少なくともそのエネルギーは確かにある。

世界を一義的なものと思わない、常にある割合で疑い続ける、というのは、面倒な待機電力は要りますが、正直であるために必要な力、という気がします。

…と、ぐるぐると考えることが何になるのかって気もしますが、たぶん自分への戒めとか、画家や植木屋さんのように、ちょっと距離を置いて考えてみる練習とか、そういう種類のものでありまして。

しかしまぁ、世界を疑うことをいったんやめてみて、そこに飛び込んでみることが必要な時期という気もしているのでありますね。はい。逆説的ではありますが。

少なくとも、何かを割り切ろうとは思っていないのです。割り切れないとはわかっているが、帰りの道筋をせめて記録しておこうと思って。小鳥がついばんで食べてしまったら、別の道を探します。いやむしろ、食べてもらったほうがいいのかもしれない。

息切らせ 追った背中が 見え隠れ


いや、ホントはこのことを書こうと思ってたんだ。

眠い。

ジェイが夜のミルクを飲んでから一暴れして寝る、というのが現在の生活パターンなのでありますが、夜中の12時頃寝て、3時に起こされてまた寝て、5時から7時まで腕の中のジェイに断続的に起こされつつうとうとし続ける、みたいな生活で、昼寝する時間(というか、昼間に子どもが両方とも静かに安全にしてくれている奇跡のような時間)もなく、まあ昨日は久々に昼寝しましたが、それで余計自分が眠かったことに気づいてしまった感じ。

いままでは育児ホルモンというか、身体が細切れ睡眠でもなんとかなるようにセットされていたのですが、だんだん乳離れしつつあると共に、フツーに数時間まとめて寝たい身体にシフトチェンジしてきたようです。育児マジックも長くは続かない。

エルの時も、9ヶ月くらいの時に激しく寝不足でふらふらで、しかもそういう自分の体調に気づいていなかったから、精神的にもひどく低空飛行でした。今回は学習しただけましだな。

眠い。眠い。背中のジェイをベビーベッドに降ろして眠りたい。好きなだけ眠れたらどんなに幸せだろう(切実)。

とか思ってみるのをちょっと楽しんでみたりして。…それもどうかな(^-^;

ちなみに昨日は、スタバで読書するのが切実でした。日替わり切実かい!←まぁ幸福の種ということにしておこう。

ジェイが起きたんで、そろそろごはんにしないと。

コメント

_ コマンタ ― 2008/11/15 17:06

お、きょうはロマンチックな句です。シェルパの背中……ではないですよね(笑)。
地と図というのはゲシュタルト心理学の用語でしょうか。ぼくは山崎正和の本で読んだだけですが、最近はあまり聞きません。聞かないのはぼくだけかもしれません。
世界観の違いについてぼくはオオザッパに、解釈のちがいと考えることがあります。誰々さんがぼくにコメントをくれた(くれなかった)のはぼくのことが好き(嫌い)だからだ、とか。
しかしこの手の解釈に囚われてしまった人達(ストーカー)が犯罪をおかすこともあるわけですから、笑いごとにはできません。

_ ヴァッキーノ ― 2008/11/15 20:20

こうして考えると、みんないろんなことを考えて生きているんだなあって、あらためて思いますね。
答えの出ること、出ないこと、いいこと、悪いこと。。。
みんな考えてるんですよ。
えらいことです。
その点、ボクは考えてないなあ(笑)
どうでもいいことにムキになることはあっても、
ちゃんとテーマを持って、考えられないんですよね。

あ、育児ホルモンで思い出しました。
ホルモン食いてぇ!
キムチホルモン鍋食いてぇ!!
それで、冷たいおビールを・・・・・・ね。

_ いづみ ― 2008/11/16 10:10

>コマンタさん
そうです、ゲシュタルト心理学という、時々思い出したようにもてはやされる分野の、忘れかけられた用語。一見、アニメの背景と人物、みたいな感じですが、それぞれの役割は固定ではなく、入れ替わることもある…というのがミソみたいです。

シンプルを極めたすばらしい解釈。実は人間の判断力のうちの半分以上はそこから出ているに違いないと確信するのであります。もはや、出力である好きとか嫌いとかを越えた、普遍ですね。

>ヴァッキーノさん
面倒になってきたからいろいろ考えてみるキャンペーンは休止にしてみようかと思うのでありました。テーマを持って考える、のではなくて、テーマを持って行動する、ほうが真っ当であります。ドストキャンペーン・ウサギキャンペーンなどなど、目白押しではないですか!食べ物飲み物記事もちょっと注目。

キムチホルモン鍋~おお、それは簡単かつ外れ無しですね。かつては豚骨スープににらを入れて食べたものでしたが。辛いものと疎遠になって、ちょっとさびしい。昔はそんなに辛いもの好きじゃなかったんだけど、禁じ手になってみると、案外さびしいものであります。やっぱり失ったものが人生をスパイス的に幸せにするのかなぁ。どうだろう。

_ 儚い預言者 ― 2008/11/18 03:02

 人間は進化しているのか、そして私は歩んでいるのかと思います。DNAは対なる螺旋で世界を構築して、いのちの原型としての夢を組む。ある意味「型」なければ、世界はどうあっても宙ぶらりんであろうし、それが逆に規定する制限にもなっている。そこに進化するとは、何か。衰退することの可否は何か。とは、ある飛翔的発想の組み入れがないと、発展の夢になっていかないという、閉鎖と開放の絶妙なるバランス。
 閉鎖することの理解は安堵だが、開放することの愛は無限だ。

_ いづみ ― 2008/11/18 10:23

>預言者さま
今、育児ばかり毎日毎日やってて、ホントこれが生活かい、ってうんざりしたり面倒になったりするんですけれど、だからといって、これといって何もするべきこともなく過ごしていた日々を切望するかといえば、今のほうが断然いいのです。本来的には私は怠け者でダラダラするのが大好きなのに、なんでだろう。と、そこで「型(ある種の制約)」があることの気楽さ、楽しさ、生産性、というようなものに思い当たったのであります。アウフヘーベンに至るまでにはまだまだ道のりがありそうですが、きっと、小さきものをいつくしみめでるといういのちの営みの中に、そのヒントが隠されているはずだと、日々目を皿にして探しております。いや、もしかしたら、そこに全身をゆだねた瞬間に、包み込まれるように現れるものなのかもしれません。

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