6歳の壁。モンテならどうする? ― 2009/09/19 13:07
さて、一応読み終わりましたよ(2・8方式ですが(^-^;)。
読みながら思ったことなど。
この本では、モンテッソーリ(以下モンテ)方式において、6歳以降に与えられるべき課題について書かれていたわけですが、その詳細は後述するとして、まず彼女の究極の目標は
「生涯好奇心を持ち、自ら学ぶ人間」
を育てることだったのではないかと感じました。これはまさに現代にもジャストミートな目標であります。
そのために、6歳くらいの子どもに、算数・自然科学・地理・歴史などの好奇心の「種子」を、できるだけたくさんまいておくことが大事だと述べています。この「種子をまく」という表現がポイントで、それは、断片的知識の詰め込みのような形式を取ってはならず、強制であってもいけない。またその種子をいつ・どのように育てるかは、子どもが選ぶことである、という、まさに、(6歳以前の自律的訓練によって)よく耕された畑への、種まきなのであります。
たとえば、以下に引用する部分は印象的でした。
(p.18)「わたしたちは、何を教えるかを選ぶ必要はなく、その精神的食欲を満たすために、子どものまえにすべてのものを並べてやればいいのですから、教えるという仕事はやさしくなります。子どもは完全な選択の自由をもたなくてはなりません。そうすれば、かれは、ある望んでいる知識を獲得する間に、興味や真剣な注意によってだんだんとはっきりしてくる、くり返される経験以外のものを要求しなくなります。」
この「自分で選んだ活動を」「くり返し手作業で行い」「集中し」「完全に満足する」というのがモンテ法を特色づけているの学習方法なのですが、基本形式は6歳以降でも同じです。ただ、教材や提示方法は工夫しなければならないということです。
そして、本の大部分を占める分量で、大地の創造や、文明の始まりについての、モンテ自身の言葉による提示例を述べています。ここで大事なのは、内容そのものだけではなく、提示方法に含まれている工夫を知ることです。その工夫について簡単に言えば、すべての内容が、宇宙の全体的調和(宇宙を構成する法則のようなもの)に向かうようなものにするということです。具体的には、想像力を刺激して興味を引き出すために美しいものにする、ひとつの哲学的性質をおびながらも受け入れやすい様式に、本質を象徴化したものに、などと述べられています。
そのようなモンテ法としばしば対比されているのが、メカニズム理解のために、要素的な諸事実だけを伝えることから始めること、断片的知識の暗記、などなどであります。
しかーし。実際問題として、6歳になって小学校で行う教科教育って、暗記やら訓練が満載であります。まぁ読み書き計算といった技術なら、確かに訓練レベルでありましょう(モンテ法では、6歳までに読み書きと数はだいたいクリアしているそうですが)。教科・単元ごとに分けられ細分化された内容を習い、覚えたものを復習テスト…基本的にはこの形式のくり返しになりがち(もちろん、良心的な教師による「生きた」試みはたくさんあります!)。
この、実際ばらばらになって与えられるものを、どうやってひとまとめに統合すればいいのか?全てを学習すればおのずからまとまる、というのは一つの実現困難な神話に思えます。だったら、最初から、「よい」整理棚あるいは見取り図のような道具を、使用可能な場所に準備(つまり、種まき)しておくことが本質的な解決として有効な予感がします。そして、折々にその道具の使い方に触れ、道具自体もバージョンアップし、最終的には、生涯自分で手入れして使えるようなものに仕上げていく。モンテはそこまで言及していないけれど、現在の教育の中でモンテの理念を生かすには、そういう方法もありかなと。
一部で注目されているフィンランドの教育方式について、非常に寡聞にして恥ずかしいのですが、「教科の壁を越えた統合的テキスト」や「テストの点数によって評価しない」などと聞きます(それを真似したのが「総合的学習」なのかも?)。確かに画期的ではありますが、もしかすると、拡散的になってしまうんじゃないのかな?学びの収束点はどこ?自律的活動のための準備は?指導方針は?とイマイチ不安に感じてしまいます(これについては、現時点で知っている少しの例からそう判断するのであって、今後情報を集めて、その感想が変わる可能性が大きいです)。
モンテでは、基本的には教科別の流れを取りながら、最終的に「宇宙の法則」の一点へと結びつけると明言しているので、一応、現実的で妥当な路線かなと。
種子をまくために、子どもに提示する教材の工夫などを、積み重ねていったらとても楽しそうですね~。純粋で地道な大人の努力が、不毛ななわばり論議に費やされないことを祈りつつ。
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