なぜ文章を書くのか? ― 2008/11/09 12:24
たぶんそろそろ文章を書きたくなってきたんだと思う。まとまっては書けないけれど、走り書きでも。広告の裏でも。エルの使い古しの折り紙の隅にでも。
自分の文章の指向性というものを考えてみるに、たぶん
「(今まで知らなかった人にも)裾野を広げたい」
という要素があることに気づいたのであります。そのために、できるだけわかりやすく(うーんあくまでも理想としてはね)、正直に、ありのままを書く、というのが目標であります。
筋トレ項目はいろいろあるとして(e.g.. 800字一本勝負、課題の有無、翻訳、とりあえず書くことを続けてみる, etc)まぁできることから。できることが限られているほうが、達成を心配せずにできるので、ある意味気楽かも。
美の探求とか、新しい世界の創造、というのとはちょっと違いますねぇ。あくまでも、いまここで起こっている何かのしっぽををつかまえること。What's going on ?
それはたぶん、かつての研究内容がそうさせることもあり(認知とか教育とか発達)、また、研究者としての夢破れ、故郷に帰って子どもやそれを知らない人にそのよさを伝える…というような代償作用もおおいにあるんではないかと。
でもね、夢を持ちながらも、フツーの生活とほどほどに折り合いをつけて生きていくのって、決してかっこわるいことでもないと思うのね。そりゃ、夢がかなって人にはできない何かを達成するのも悪くないけどさ。先につなげる、という方向性は、案外大事なんであります。
実は伝えたいのは、目の前の現象の中に確かに存在する、未来へのベクトル。どういう仕組みから出てきて、どこへつながるのか。どんなシステムのどの部分なのか。未来はわからない、だから、現実を丹念に見つめてその手がかりを拾うしかない…。私にできることはかすかな方向性を示すことだけ。
そして必要な技や知恵みたいなものはそれぞれにカスタマイズして身につけてもらう(笑)結局はそれが一番効率がいい。
究極的には、教育って、技や知恵を与えるだけではないと思うんだよって言いたい。声を大にして言いたい。じゃあどうすればいいの?って聞かれたら、目の前の現実の中にある、未来へのベクトルを示すこと、と答えるかもしれない(今は)。でも、それじゃ何のことかわからないよね(^-^; 私にもそれ以上はわからない。ただ、とても小さなことからやってみようとは思う。
みたいな感じで。あくまでもフツーに、生活するのでありました。ちゃんちゃん♪
と、駆け足でブログに向かうこと数日、やっぱりジェイの2回食+ミルクは大変(^-^;出かけることもできず、夜も思うように寝られず。エルは自分は何でもできるから余計なこと言うな期だし。
しかし、その閉塞感が精神的自由→文章書きのエネルギーに向かっているんだからそれはまぁそれでいいのかな。ムダに落ち込むよりは合理的であります。逃避逃避♪
気分がいいときは俳句で、ちょっと微妙なときは短歌がいいのかもしれない。
エプロンの 裾を引き寄せ 紐を解き 膝抱きつく子 芋をむく我
ごめんなさい もうしませんと 部屋出る子 足音やがて 鼻歌聞こゆ
わかるかと 叱ればすぐに わからぬと 答える瞳 我映し出す
コメント
_ コマンタ ― 2008/11/09 14:01
_ 儚い預言者 ― 2008/11/09 20:36
飛び出すことの夢は、省みる発祥からの熱き意志。映し出すことの、表すことのパッションは、いのちの鼓動の血潮に満ちて、なお知の前哨を広げる。
あなたがあなたであるとき、あなたの周りの全てが輝く。それはあなたがいのちの本源として輝き、全てを照らすからだ。
時間はあなたに与えられた自由だ。決して反対ではない。永遠なる夢のキャンパスなのだ。夢もときめきも飛翔も還元も自由にあなたは描ける。
過去は原因ではなく、かつまた未来は結果ではない。
思い出という慈しみと希望という喜びの出会いが今という永遠を紡ぐのだ。
こそだての
ひじりにあいの
ゆめぶたい
あなたしらずや
あなたとうとき
_ ヴァッキーノ ― 2008/11/09 23:41
書くだけじゃ、満足しないんです。
見てもらいたいんですよ、ボクは。
そして、できたら、感想も。
そういうわがままが、あるんですね。
そのわりに、なんか手を抜いてしまうんです。
いづみさんみたいに、もっと真摯に分析したりして、
文章を書くことをしてみたいと、
思う、秋の夜長です。
_ おっちー ― 2008/11/10 00:21
感じる事も大事にしていきたいものです。身体で思い知るというか。あーこれかー、みたいな。そういうのがもっと増えればねー……。
いろいろやっていきいましょうね。がんば!
_ いづみ ― 2008/11/10 10:30
>コマンタさん
こんなところでなんですが、「脳と仮想」の主題の一つが「仮想と現実」の関係です。モギ氏はその間の揺るぎなく見えた壁をがっつり崩そうとしている。その上で、仮想が現実に及ぼす役割について考察しています(たぶん)。
これは創作における「フィクション/ノンフィクション問題」とも同じ構図だと思うのです。せっかくだから、そこにつながるような話になれば、ワイワイガヤガヤ最後はバーチャル飲み会みたいになって楽しいかなと勝手にウキウキしてみました。クオリアという説明概念はまぁご愛敬かなぁ、と思っているのですが、どうでしょうか。もちろんその辺の重み付けの違いも楽しみなところではあります。
筋トレ~しないと~。至る所重力が直撃です(^-^; ステファン・メルモンの10分ピラティスのDVDを買おうかどうか迷い中…。
>預言者さま
いのちを紡ぐ、という言葉がふとよぎりました。預言者さまは未来を迎えることにかろやかな自信を与えてくれます。今ここにいても、どこへでも飛び立っていくことができると。
>ヴァッキーノさん
いかにして心配するのをやめて文章を愛するようになったか?という警句はいいですねぇ。毎回きっちり読んじゃうんですよ。そして、あ、心配するのやめよう、って。心配しない分だけ、手を抜いてみるのも悪くないんじゃないかなぁ。ワタシの悪い癖は、分析して、そこで終わってしまうこと(^-^; あきらめずにしつこく進みまーす♪
>おっちーさん
感じること、ってとても大事ですよね。普段は視覚とせいぜい聴覚くらいでだいたいのことは済んでしまうけれど、そのぶんきっちり他の感覚は自分でフォローすることが前提なはずなんです。電話は昔から苦手で、テレビまでどうも不得手になって久しいのですが、その代わり、わざわざ人に会いに行くことが楽しみになりました。この、わざわざを楽しめばいいのかな♪って。
_ コマンタ ― 2008/11/10 14:16
そうだとすると、フィクションとノンフィクションとの違いはなくなるような気がします。ともに脳内の仮想を経由して表現されたものでしょうから。
それはともかくこの本はいろんなことを考えさせてくれます。これから楽しみです。
いいわすれましたが、いづみさんの短歌、いいじゃないですか。器用なんですね。現代短歌が失った古きよき昭和がかんじられます。
_ いづみ ― 2008/11/10 14:46
そうなんですよねぇ、脳というハードウェアを突き詰めていくと、現実も仮想も全てが脳内現象になっちゃう。リアリティーという基準を持ち込んでも、それは同じこと。現実世界は「仮想の」安全地帯にしかすぎないのかもしれません。と、うろ覚えのまま話しててもダメですね、私も明るい光の下で読み直そう。
私にとっての短歌は…万葉集に詠み人知らずで連なるのが夢です(笑)
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素人にしてはまとめ方というか抽象する仕方がアザヤカなのだから、もっと早く思い出すべきだったんですが。
書くことはたしかに筋トレに似てますね。さぼるとずるずるとしないで日を送ることができてしまう。ぼくは最近読むこともおろそかになっているので、まずは『脳と仮想』でリハビリをと思っています。